原爆の日

日常話

8月6日は広島に原爆が投下された日。

私の母方の祖母は広島で被爆しました。

毎年この日だけは8時15分に黙祷しています。

そんなプライベートなこともたまには綴ってみようと思います。

祖母の被曝

正直に言えば、私も祖母の被曝については多少聞いただけで詳しくは知りません。
正確に言えば、私の母でさえほとんど聞いたことがないので、ポツリポツリ話したことをそれぞれが繋ぎ合わせたことしか分かりません。

祖母は明るくおしゃべりが好きな人でしたが、原爆については語ることは滅多にというより、ほとんどありませんでした。それが何を意味するのかは想像するしかありません。

祖母は若い頃、看護学校に通い、看護師を目指していました。

そして看護学生の頃、広島市に原爆が投下されました。

爆心地から少し離れた看護学校に通っていたため直接の被曝はしていませんが、原爆投下から2〜3日した後、看護学生も被爆地に入り手当てに当たったそうです。

そして被曝しました。

防護服もなく、被爆地に入る。今では考えられませんが、そういう時代だったのでしょう。

被爆後、3人の子どもを産み育てた

被爆後、祖母は看護師になはりませんでした。

混乱でそれどころではなかったのか、祖母の意思で中断したのかは分かりません。

戦地から戻った祖父と結婚し、3人の子どもを産みました。そのうちの1人が母です。

船乗りだった祖父が島を離れ広島市内で就職をし、それに伴い爆心地に程近い場所に引越し小さなお好み焼き屋を開いたそうです。アパート経営もしていました。遣り手さんですね。

まだまだ原爆の爪痕の残る街で、母は暮したと話していました。
河原には成長した孤児や焼き出された人がいたそうですが、市政により一掃されたそうで、あまり治安は良くなかったと聞いたことがあります。

祖母は何を思ったのでしょうか。

聞いておけばよかったのかもしれませんが、聞くことはできませんでした。

原爆のことは頑なに話さなかった祖母

私が幼い頃から原爆資料館にはよく連れて行かれました。一番幼い記憶で小1の頃にはすでに何度目かだったように思います。

異国に暮らす従姉妹が来日した際も、必ず連れて行っていました。

しかし、祖母から原爆のことや資料の解説は聞いたことがありません。
何かを伝えたかったのかもしれません。決して口に出すことはありませんでしたが。

被曝によって祖母の足がただれていたことは覚えています。

黒ずみのあるボコボコとした足が資料館で見た被爆者と重なりとても怖かった。とても。

千羽鶴を貞子像に納めたこともありました。

何も話さず、あの時どんな気持ちだったのか、想像もつきません。苦しい胸の内を口に出すことができなかったのだと思うと、胸が詰まります。

原爆の後遺症

よく入院していました。パワフルに活動する一方、患いがちで体が弱かった記憶があります。

甲状腺の病気にもかかっていました。
原爆が理由かは分かりません。元々の体質の可能性も高いでしょう。

一時余命を後1年と宣告されたようですが、その後まさかの40年生きました。

「原爆手帳のおかげで先端治療を無料で受けられたから」と笑っていましたが、晩年にそのこともモルモットになったようだったと話していました。
たくさんの研修医にみられながら実験台になったと、寂しそうに笑った顔は忘れられません。

あまり原爆のことを話さなかった祖母ですが、印象的だったことがあります。

一度だけ、晩年の過ごし方を話し合っていた時に「原爆病院で死にたい」と言いました。広島にある原爆後遺症の方が入るらしい病院や特別養護老人ホームのことを指しているようでした。

「大学病院でジロジロ見られるのはもう嫌なんよ」そう語った祖母は私の前で初めて原爆のことを”ピカ”と呼びました。はだしのゲンで読んだ”ピカ”という言葉を祖母が口にした時、私は背筋が凍りました。

分かってはいたはずですが、祖母が原爆を受けた人間であること、遠い戦争や物語の話ではなく、当事者であることをなぜか思い知らされた気持ちになったのです。

祖母の人柄

祖母はとても明るい人でした。前向きで、突拍子もない行動をとる自由な人。勝気で、いろんな人と喧嘩もしていました。頑固な一方、孫には優しくて、とても甘い人。

お転婆、とはしばしば少女を指し示しますが、まさに字の如く転ぶ婆、ケラケラわらい、実際によく転がるように力一杯遊んでくれました。

料理上手ではありましたが、時折おかしな創作料理を作るのが困り物でした(笑)本当に不味かったです。一方、お店で出していたお好み焼きは絶品でした。手際良く、美味しいお好み焼きは歳をとって力がないと言いながらも、それはそれは見事でした。

祖母はすでに一度余命宣告を受けていることもあってか、いつもいつ死んでも後悔がないように全力で楽しむ人でした。

祖父が亡くなった後、「おばあちゃんももうやりたいことは全部やったけぇ、いつお迎え来てもええんじゃけどねぇ」と言っていたことがあります。

前向きで、趣味も多く、いつも楽しそうにしていた祖母が言った一言は、私の死生観に大きく影響を及ぼしていると思います。そのくらい強引にやりたいことを常にやり切る生き方をしていたように思います。

息子に話してみた

私には小学生の息子がいます。

昨年、学校で「原爆の日」と言うものを聞いたようで、私にそのことを伝えてきました。
いい機会なのでと祖母のことを話しました。
あまりに刺激が強かったのか泣き出してしまいました。まさか遠いこととして聞いた原爆が、自分の曽祖母の身におきたことだとは思いもしなかったのでしょう。

ボロボロと涙をこぼしながら「どうして看護師さんにならなかったの?」と聞いてきました。

私は答えを持っていません。諦めたのか、自分でやめたのか、それどころではなかったのか。

まだまだ幼い彼にとって夢とは「夢を描き、叶って行くこと」しか考えていないのかもしれません。
悲しい出来事により、夢がなくなってしまったこと、そんな理不尽なことを初めて聞いたのかもしれません。看護師になる夢はどうなったのか、ということにとても拘っていました。

息子には、祖母がどれだけ明るくて、その後もたくましく生きたかについて話しました。
看護師にはならなかったけれど、理不尽を受け止めて強く生きた人であったことが伝わればいいなと思います。

無数の生きた道がある

祖母は普通の人です。そして名もなき故人になりました。

原爆の当日大勢の普通の方が亡くなり、大勢の普通の方が後遺症を負いながら生きました。
一人ひとりがどんな人生を歩んだか、私には想像もつきません。

ただ、その一人ひとりに思いがあり、あの日全てが変わってしまった。

毎年この時期に議論される、原爆が仕方なかったことか、過ちだったかは分かりません。
実際に落ちてしまったものを今更覆すこともできません。

しかし多くの方が逞しく、強く生きてきてくださったからこそ、私たちは今平和に暮らすことができます。
祖母のように原爆のことを口にすることなく、この世を去った人もいます。

憎いとも、酷いとも、良かったとも悪かったとも言いませんでした。

私はこれからも祖母が原爆資料館で何を伝えたかったのか、答えもないのに考え続けると思います。
どんな気持ちで千羽鶴を折ったのか、どんな気持ちで原爆ドームを見つめていたのか、どうしてあの日のことを誰にも話さなかったのか。


そしてそれと同時に、苦しみに蓋をし、前を向き激動の時代を逞しく生き抜いた”普通のおばあちゃん”がくれた命であるということを忘れてはならないのだと思います。

取り止めもなくなりましたが、原爆の日に際し祖母のことを書き記してみました。
このコロナの時代、悲観的になりそうなこともありますが、屈することなく明るく生き抜いた祖母を見習い、一歩一歩進んでいきたいと思います。